京都女子大学の「女子大宣言」〜卒業生から見た女子大存続の意義〜

京都女子大学の「女子大宣言」〜卒業生から見た女子大存続の意義〜

目次

2025年7月1日、京都女子大学から発表された「女子大宣言」。

X(旧Twitter)で目に止まった時に、卒業生として誇らしく思う。—もちろん、女子大の需要が減る世間一般との逆流の宣言に、一抹の不安とセットであってもだ—

こうした「女子大宣言」がもたらす意義を「女子大宣言」が発表された背景とともに、京都女子大学の卒業生として記していきたい。

京都女子大学が、強いては全国の女子大が存続できるよう、そんな眩い光のような祈りを、記事に込めて—

京都女子大学の「女子大宣言」とは、女子大であり続けることの宣言

京都女子大学が発表した「女子大宣言」とは何か。

端的に言えば、女子大が閉学・共学化していく中「京都女子大学は女子大であり続ける」という宣言に他ならないだろう。

京都女子大学が実際に発表した「女子大宣言」を下記に引用する。

「京都女子大学は、創立以来の建学の精神に基づき、 女子大学であり続けることをここに宣言します。 女子大学という環境だからこそ、性差にとらわれることなく、 一人ひとりが対等な関係の中で学び合い、 自立した“人”として成長することを可能にします。 この学びは、社会における多様な価値観や背景の違いの中でも、 自らの信念を持ち、一人の人間として真摯に行動し、 価値を創造する力を育みます。 このような力を身に着けた本学卒業生は、すでに13万人*を超え、 社会のさまざまな場面で活躍しています。 京都女子大学は、これからも在学生・卒業生とともに 女子大学としての更なる発展を目指して教育改革に邁進し、 女子大学として社会の変革に挑戦する“人”を育成し続けることを ここに宣言します。 令和7年7月  京都女子大学長 竹安栄子」

(京都女子大学公式HPより引用:https://www.kyoto-wu.ac.jp/daigaku/kyojo/declaration.html

京都女子大学は、共学ではなく女子大であることに意義を持った宣言とも言える。

次に、この宣言がでた背景に迫ろう。

京都女子大学の「女子大宣言」の背景は、他女子大の相次ぐ閉学・共学化か

京都女子大学の「女子大宣言」発表の背景は何であったか。

女子大学閉学・共学化の流れはやむことのない昨今ではあるが、なぜ2025年7月1日の発表に至ったのかを推察したい。

京都の女子大学御三家でもある京都ノートルダム女子大学の閉学、また関西の女子大最大のマンモス校である武庫川女子大学の共学化の発表は、京都女子大学の全ての関係者の心を揺さぶられる出来事であったであろう。

あえてこのタイミングで京都女子大学が「女子大宣言」を発表したのは、京都女子大学の矜持を見せたかったのか、京都女子大学の在校生や卒業生に安心感を与えるためであったのか。

それは定かではないにしろ、いずれにせよ私は前者にも後者にも受けっとっている人間である。

あえて言わせていただくなら「さすが京女(京都女子大学の略)」そう唸る宣言であった。

卒業生から見た女子大学存続の意義3つ

それでは、本記事の本題である「京都女子大学卒業生から見た女子大学存続の意義(女子大の必要性・メリット)」について記していきたい。

細かくいうとキリがないほど女子大の必要性を感じる身であった筆者だが、女子大学のメリットは大きく分けると3つあると言える。

①マイペースで良い学生生活

②恋に打ち込むも勉強に打ち込むも自由な風潮

③女性ではなく「一人の人」としての存在意識

上記3つのメリットの詳細を下記に記していく。

①マイペースで良い学生生活

女子大学特有の雰囲気かもしれないが、女子寮から大学に通う子などは、パジャマ姿で首にタオルを巻いてくる子もいるくらいである。

私もそうであったが、すっぴんでメガネで登校する子などは、ザラにいた。

おそらく男性がいないというのは、大きな要因の一つであろう。

かなりマイペース—強いていうなら、大雑把—に過ごしても許容されるのも、女子大の良さであろうか。

また、女子大学にはもちろん女性しかいないので、世間一般でいう男性的な役割・女性的な役割を女子大学の中の女性でそれぞれ自然と勝手に役割分担する。

(少し話はそれるが、この傾向は特に中高の女子校で、一層強い気がしないでもない。というのも、筆者が中高大と女子校を経験したからだ。)

こちらは③で詳しく記したい。

②恋に打ち込むも勉強に打ち込むも自由な風潮

女子大には、共学上がりの子もいれば女子校上がりの子も、ぞれぞれたくさんいる。

また、京都女子大学は全国津々浦々、北海道から沖縄まで、その地で過ごしてきた子が京都まで下宿して登校している子もたくさんいた。

①で記したマイペースに過ごせる風潮があるので、他大学で恋に打ち込むもいれば、大学院は外に出て勉強に打ち込む子、多種多様であった。

これも男性がいないことに起因してそうではあるが(男性の皆様、すみません)、男性がいないからこそ、友人以外の他の女学生に興味のない子が多かった。

③女性ではなく「一人の人」としての存在意識

①で前述した、女子だけの空間になると、世間一般でいう男性的な役割・女性的な役割を女子大学の中の女性でそれぞれ自然と勝手に役割分担し出す傾向にある。—あくまで私の個人的見解にすぎないが—

社会や共学だと手を挙げにくい男性的な役割が、自然に降ってくる場合がある。

というのは、先述した通り、これは特に女子中高に強い傾向があって「おい、運動部はこのテント貼ってこい。文化部は机を運べ」など、そんな雑な指示がぽんぽん飛んでくるような場所が、女子校(女子大)である。

女子大からは少し話が逸れてしまったが、女子だけの空間になると、力仕事も細かな仕事も女子の仕事なのだ。

社会に出たら男性との共存は不可欠なものの、多感な時期に「一人の人」としての扱いは尊い資産である

しかしながら、社会に出ると男性がいるのは当たり前である。

何なら、男性と一緒に仕事して、コミュニケーションも取らなければならない。

社会生活を営む上で「男性とは関わらずに生きていく」ことは実質不可能だ。

けれども私は、京都女子大学を卒業した私は、声をあげたい。

多感な時期に「一人の人」としての扱いは尊い資産である、と。

最後に、恥ずかしながら、私個人の話を少ししよう。

私は大した人間ではないが、家族を持って一児と猫の母もしている。

病気に臥して夫の金銭に頼りながら生きていた時、病の最中であっても「絶対に扶養から抜けて自立するのだ」と何度も心に誓ったものだった。

やはりそう思えて実現できたのは、女子大育ちだったからではないかと思っている。

京都女子大学の「女大宣言」、私は応援しています。

全国の女子大学が、たくましく存続できますこと、心より強く、願っております。

綿まるみ

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